現代は不安の時代であるといわれます。

その時代を反映してか多くの宗教が乱立し、

多数の人達もまたそれらの宗教に入信しているようです。

 この小松教区においても死後の安心を売り物にした

宗教が流行ったことがありました。

祈ることによって、善行を行なうことによって

不安を解消しようと説くのです。

しかしこの宗教に限らずいえることですが、

果たして祈ったぐらいで不安がなくなるのでしょうか。

実際は次から次へと新たな不安が出てきます。

解決したと思った底から出てきます。

不安から目をそらす生き方では

本当の解決にはならないのではないでしょうか。

 善導大師が『二河の比喩』で

「善心微(み)なるがゆえに、白道のごとしと喩う」

と述べられています。

辺(ほと)りがなく底がない火の河・水の河に

「善心」がかすかにあるというのです。

この「微(かす)か」とは、

全体からわずかという意味ではありません。

私の意識よりももっと深いところ、

自分自身でも気づかないところに「善心」があるというのです。

その「善心」とは「清浄願往生心」だと教えられ、

いわばいのちに根ざした

「いのちそのものの願い」を表すのでありましょう。

では、私より深いところにあるいう「善心」とは

具体的には何をさすのでしょうか。

 思うに、この「善心」こそ不安ではないでしょうか。

不安とは私の酔生夢死の生き方を揺り動かし、

目覚めさせようとするいのちそのものの働きにほかなりません。

つまり、不安だけが私の生き方を

「これでよいのか」と問うてくるものでありましょう

 その不安に耳を傾け、気づき、歩みとなった時、

狭く常に水にうるおされ、火に焼かれた道であろうとも、

その道は確かに白道なのであります。


−小松教報− 能邨勇樹