九條 武子(くじょう たけこ)

1887年、京都府生まれ
『歌集と「無憂華」』(野ばら社)より



小松駅前のれんが通りをしばらく行くと、

「喫茶ブルボン」というお店があります。

そこのマスターOさんは、生まれつき股関節脱臼の身体です。

しかしそれが縁で親鸞に出遇った方なのですが、

たまたまコーヒーを飲みに行ったことから友達になり、

今ではお店で『歎異抄』を読むほど、

深いつながりをいただいています。

私はOさんとの出遇いを通して、

人が救われるということはどういうことか

を感じさせてもらっています。例えばOさんは

「この身体のおかげで自分が自分になれた」

とよく言われるのですが、その理由を尋ねると

「もし、悩んだり苦しんだりしなかったら、

きっと今のような考えにならなかっと思う。

この足があったから人よりも生きる意味を問われ、

道を求められたのだ。

大きなはたらきの中で私は私になれたのだ」

と言い切ります。また、

「いまの時代は豊か過ぎて不幸かもしれないと思うときがある。

せっかく虚しいと感じたり、

自分の生き方はこれでいいのだろうかと思っても、

ごまかす物があまりにも多い。

テレビのスイッチひとつでいやなことを忘れ、

道を求めるということになかなかならない。

その点僕は歩くたびに激痛が走ったりして、

その存在そのものを問わなければならなかった。

人よりも生きる意味を考えなければならなかった。

そのおかげで『歎異抄』に出遇ったと思っている」

「何にもつらいことに遇ってないってことはかわいそうだ。

気がつく機会がないってことだから」

など生きざまを通して語られる言葉は胸に響いてきます。


私はOさんを通して、人間にとって

悩むということはいかに大切かを教えられます。

つまり、悩むからこそ南無阿弥陀仏に出遇えるのであり、

悩むからこそ深く豊かに生きられると思うのです。

でもよくよく考えてみれば、悩みや不安だけが

「お前の生き方はこれでよいのか」

と問い返すいのちのはたらきではないでしょうか。

もし不安も悩みもないならば、人間は傲慢で

思い上がった生き方になるに違いありません。

悩みあればこそ生きる意味を尋ねることが始まるのでしょう。

その意味で「悩みは救いの種」だと思うのです。


しかし昨今の状況を垣間見ると、

癒し、プラス思考など安易に解消しようとする傾向が見られ、

宗教においても問題の解決を

死後や霊魂など外に求めるものもあります。

また、教えによっては人の弱みに付け込んで、

救うどころか自立を奪うようなカルト的宗教も見受けられます。

 

できれば会いたくない悩みや苦しみですが、

本当に避けるような在り方では救われません。

Oさんのような深くて自由な生き方を賜ることこそ

真実の救いだと思っています。

私はそんなOさんに遇いに今日も「ブルボン」に通っています。



能邨勇樹
今日の言葉より(東本願寺出版部発行)