[4月の法語]
坂村 真民(さかむら しんみん)
1909年、熊本県生まれ
「坂村真民集」(大東出版社)より


[法話]

お腹にいる間は身ひとつ、とてもとても近くにいた我が子。

へその緒を切るまでは私だけが頼りなのだと言い聞かせ、

ついに待ち望んだ誕生の産声。


 “とうとう遇えたね”


それは何とも言えない瞬間でした。

けれどじわじわと喜びが沸いてくるなかにいて、

同時に私は、子どもが私の手から離れていったことを

知らなければなりませんでした。

なぜなら、生まれてきた子どもはすでに一人前だったからです。



目のあたりにすると、それはびっくりするぐらい揺るぎようのない事実です。

赤ん坊は、もうそのいのちを尽くして泣いているのですから。

もはや親が代わってやれることなど何もないのです。


思えば、胎内に誕生した瞬間からもう一人前だったのですね。

どうかすると壊れてしまいそうなまだ小さい小さいいのちだから、

そして十ヵ月もいっしょにいたからか、長い間、気がつきませんでした。

いえ、それ以前にも私は、子どもなど影も形もないころに、

子を産み育てることへの不安をどうしようもなく抱え、

身動きできずにいたことがありました。

それは私には必要な時間でしたが、生まれくるいのちにとっては、

どうでもよいことだったのかもしれません。

いのちは、私の思いなど遥かに超えた世界で息づいていたのです。


 ふと、友人の言葉を思い出しました。

「経済的、体力的に無理だから子どもは一人でいい」と。

そして友人は自分たちが死んだ後を心配して、

その子には年を取っても稼げる職に就いてほしいと願っていました。


友人の願いを聞いて「切実ではあるけれど、さみしいなぁ…」、

そう思った私も、振り返れば同じように、

自分の都合で毎日子どもに何かを期待し、要求しています。

きっとこれからも子どもの成長に合わせて、

あれやこれやときりがないのかもしれません。


ただ私は、誕生の時にもらった感動を思うのです。

生まれた子は全身で産声をあげ、私の思いなど太刀打ちできない

厳粛ないのちの事実を見せつけてくれました。

そして、ただただ、たまわったいのちの望むがままに、

生まれて在るのだということを知らせてくれました。

 
本当にかけがえのない存在だと思いました。

 
我が子だからということを離れては考えられないかもしれませんが、

でも我が子をとおして、いのちのあるものは

みんなこうして生まれてきたんだという感動を、同時に覚えるのです。


 いのちははかりしれない縁により、変わり続けます。

輝くときも、病むときも、老いるときもすべて変わりゆくいのちの相です。

そして最期は必ず終わってゆかねばなりません。

それこそどうにもならない厳粛な事実です。

だからこそ、私の思いの世界を超えて在るからこそ、

いのちは尊いのだと思うのです。

どんな相になったとしても、

「この身が在る」ということが、ただそれだけで尊いのだと思うのです。

 
この夏、息子は二回目の誕生日を迎えました。

自我が芽生え始め、ただ今、“いやいや”の真っ最中です。

この先も、子どもとはどんな対面(めぐりあい)が待っているのでしょう。


 日々の生活のなか、南無阿弥陀仏に導かれ、

同じ生まれて在るものとして自らに、

そして他者に出遇い直すことの大切さにうなずいていきたいのです。



能邨 奏美子(のむら そみこ)
真宗教団連合HP−法語法話−より転載しました