宗祖に遇うということは慶びなのでしょうが、

私自身悲しいことだと思う時があります。


ある家のご法事に行った時のことですが、

その家は十数年前に子どもさんを事故で亡くされました。

勤行が終わった後、

そのお母さんから地元の新聞に連載されていた

M先生のコラムをたまたま目にし感銘したことと、

以来そのコラムを楽しみにしているという話を聞きました。

そしてできれば気づかなかった

最初の数回分を読みたいと言われ相談されたことです。

後日その部分を送付したことですが,このお母さんにとって、

もし子どもさんを亡くすようなことがなかったら、

M先生の言葉はきっと目にも留まらなかったように思うのです。

現実が引き受けられずに悶々としてきた日々があったからこそ、

先生の言葉に感動されたのではないでしょうか。

同じように宗祖に遇うということも、

ただでは遇えないように思うのです。

こういった悲しみやさまざまな問題が

宗祖に遇わせるのではないでしょうか。

その意味で、私自身宗祖に遇うということは

悲しいことだと感じることがあるのです。

しかし考えてみれば、日常生活の中で

例えば仏教とか真宗ということを大上段に構えてみても、

人はそんなに思い続けられるものではありません。

どちらかというと日々の生活に流され、

自分の欲望に振り回されてしまうのが実情ではないでしょうか。

その日常性に埋没している私を揺り動かし

掴んで離さないものが、現実であり

さまざまな問題だと思うのです。

現実や諸問題は私を苦しませ悩ませるものですが、

しかしまたそのことが私を問い、深めさせるのです。

人生の矛盾を抱え、割り切れない思いを持ち続けることが

その人を求道者にさせ、真実の言葉に

出遇う身にさせられるのではないでしょうか。

思えば私自身も現実の自分がなかなか引き受けられず

今日まできました。しかしその思いが多くの言葉や

いろんな人に遇わせて頂いたように思います。

現に今もいろんな方々にお育て頂いているのも

引き受けられない気持ちがあればこそだと思っています。

これからもいろんな問題に出会っていくのでしょうが、

事実から目をそむけることなく、

それを縁に道を尋ねることが

宗祖に遇うということではないか、

と今はそんなふうに思っています。

−同朋新聞− 能邨勇樹