「息の緒のよりて甲斐ある一ふしの 豈(あに)なからめや盲(めし)いたりとも」(『白描』) ハンセン病のため、三十八歳で逝った 明石海人(あかし・かいじん、1901−1939)の歌です。 海人は画家を志し上京しましたが、十代で発病。 すでに結婚して二女に恵まれた生活も、 「癩(らい)予防法」施行のもと、 両親や妻子、世間から隔離されて、 瀬戸内の孤島・長島愛生園に入りました。 療養もむなしく、やがて失明し、体の一部がまひし、 ついには気管切開して命が刻々ついえていく日々でした。 結核以上に恐れられ、「予防法」で強制隔離され人権も奪われ、 患者やその家族に多くの悲劇をもたらしましたが、 疫学的には伝染病ではなく弱い細菌感染症で、 大部分の人は免疫をもっているといわれ、 まれに発病したとしても近年は特効薬により完全に治癒でき、 決して恐れるべき病気ではなくなっています。 その点から一日も早く「らい予防法」(現行法)を 改廃すべきであります。(注:1996(H8)年4月1日廃止) さて、海人はその有り様を「癩は天刑である。 加わる苔(しもと)の一つ一つに、 嗚咽(おえつ)し慟哭(どうこく)し あるいは呻吟(しんぎん)しながら 私は苦患の闇をかき捜って 一縷(いちる)の光を渇き求めた」と述べていますが、 地獄のような生活のなかで三十を過ぎて短歌を学び 「あらためて己を見、人を見、山川草木を見る」ようになって 自分が住んでいる大地がどんなに美しいかを感じ、 またこれまでの苦渋を一首一首の歌に表現しながら 肉身を生きる己を祝福できるようになりました。 明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。 癩はまた天啓でもあった」と告白しています。 ときには死んだほうがましだとさえ思います。 私たちはこうした「おもい」をそのまま本当のことだと執着して、 この身の事実と自我の「おもい」のギャップに 気づくのは容易ではありません。 しかし、この気づきを通してあらためて己を見るとき、 自我の「おもい」をこえてこの身を生かせている 無限なるいのちに出遇(あ)うことができます。 最後には呼吸をすることすら困難であった海人が、 しかもなお、生きている、ただそのことを無条件に 有り難いと受け止められたことに深い共感を覚えるのであります。
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能邨英士 産経新聞ー語るー欄<1995(H7)年4月11日掲載> |