いじめ

 

他人をいじめることが悪いことであるということは、

小学生はおろか、幼稚園児でも知っていることでありましょう。

これだけはっきりしていることが、

なぜ次から次へと起きてしまうのでしょうか。

人間の理性でどうしてもコントロールできない

領域のことだからでしょうか。


 阿弥陀仏の四十八願の、その第四番目に

「無有好醜(むうこうしゅ)の願」という願があります。

これは阿弥陀仏の世界には姿や形が違うことによって、

好ましい姿のものと醜いものというように

差別されるようなことが決してあってはならない。

もし好醜の差別があるようなら、

私は誓って仏とはならないという願いであります。

 この本願が何を語ろうとしているかといいますと、

人間は、理性よりももっと深い感情の領域で

常に好醜に執(と)らわれ、好き嫌いで差別し、

是非の判断を下して、そのために自らも傷つき、

他を傷つけずにはおれない

人間のありようを言おうとしております。


 ここに一つの逸話があります。


 あるとき、数人の紳士が集まって

世界の平和や人間の幸せについて

熱心に語り合っていました。

ところが、そのとき、ひとりの人が洟(はな)をかんだのです。

すると、居合わせた人はその洟のかみ方に対して、

何ともいえない嫌悪の情にもよおされて、

雰囲気がすっかり損なわれてしまったというのであります。

 人はみな仲良く、世界は常に平和でなければならない

というのは、人間の理性の領域であります。

しかし、理性よりももっと底にある好悪の感情につき動かされると、

洟のかみ方ひとつで嫌悪の情に駆り立てられてしまいます。

いじめの問題は少年期だけのことではありません。

年とった親の老醜に対し、子がふとどうにもならぬ

嫌悪の情を抱いてしまいます。

親は子の嫌悪の表情を見取ってどんなに心いためることでしょうか。

察するにあまりあります。

 だからこそ、人間は、等しく好醜にとらわれる感情を

もつものであり、その感情を持続させ、発露し、

さらには共同化さえしてしまう存在であることを

よく自覚する必要があると思います。

その自覚はどこからくるか。それは存在の根底にある

いのちの願いに目ざめるところからくるのでしょう。

この願いに背いている自分に気づくことによって、

はじめていじめは克服されると思います。


真実の教えに基づいた本当の智慧(ちえ)に学ぶ、

そういう真実の宗教による家庭の教育や家族の交わりが

今こそ大切なときであると痛感いたします。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年4月25日掲載