父母

ひとつのいのちが誕生する、

その瞬間に親と子が初めて出会います。

子の誕生は同時に父母の誕生でもあります。

 呱呱(ここ)の声をあげるといいますが、

生まれ出た子に自覚はなくても、その声は

両親には生涯忘れることのできない感動を与えます。

しかし、子供にとって父母に本当の意味で出会うということは

必ずしも容易ではありません。 

かつて新聞の投書欄で感銘を受けた記事があります。

ある父親が、貧困のなかから

言語に尽くせぬ苦労を重ねて事業に成功され、

自分の子供に対しても金で苦労をさせないよう

大事に育ててきました。

ところが、その最愛のわが子が高校生のとき、

突然、自らのいのちを絶ってしまい、

両親はどん底に突き落とされました。

「子供には自分のようにつらい思いをさせたくないと、

欲しいものは何でも買い与え、

したいということは何でもさせてきたのに、

何の不足があって息子は死を選んだのか。

だれか教えてほしい」という趣旨の

悲痛な言葉が今も忘れられません。

この父母の苦労や愛情が、青年の自死をとめる力に、

何故(なぜ)なり得なかったのか考えさせられます。 

もしかしたら、親の愛がいつの間にか一方的な押しつけになり、

かえって精神的な負担となってはいなかったでしょうか。

物だけがすべてではないと叫びたかったのかもしれません。

もし自分が、世界中の人から見捨てられても

父母だけは絶対に自分を見捨てないという信頼感こそ、

子が父母に求めるものではないでしょうか。
 
このような話を聞いたことがあります。

盗みをしたある小学生の父親のことです。

子に裏切られて激怒した父は

わが子を寒中の庭の池に放り込み、

自分も一緒に飛び込んで、何故そんなことをしたのか、

と涙ながらに真剣にわが子をただしたのでした。

共に飛び込んでくれた父の姿に

その子は父の愛をしっかり受け止め、

父と子が本当に出会ったというのです。

子をもって知る親の恩といわれますが、

私自身三人の子供に恵まれてこの言葉を実感しております。

父はすでに亡く、老いた母が健在ですが、

考えてみますと、私自身が父母の願いに

どれだけ応(こた)えてきたのであろうか、

また子供たちに対し、親としてどのような

人間になってくれと願っているのか、

わが身が問われているのを感じます。

これはつまるところ、自分自身が

どのような人間になろうと願って生きているのか、

と問いかけられていることにほかならない

と深く思い知らされることです。



能邨英士
<1995(H7)年5月9日掲載>