終末論
「脚下照顧」(きゃっかしょうこ)という言葉がありますが、


終末論とか終末思想といった観念的な論議もさることながら、


今われわれが立っている足下(あしもと)を明らかにすることが

最も大事でないかと思います。


街行く人々に対し「人類に未来の展望はありますか、

イエス・ノーで答えてください」と問うた場合、

恐らく一様に戸惑いを感じられるのではないでしょうか。


 環境破壊・資源の枯渇・エネルギー問題・

食糧問題・人口爆発・南北格差・

エイズ問題・民族主義の台頭と紛争、

そしてボタン一つで地球上の生態系を一瞬にして破滅する

核兵器をいまだに廃絶できずにいる問題があります。

また、われわれの身近なところでは、

犯罪や自殺者の増加、麻薬の汚染や

家庭崩壊の問題等々どれ一つ取り上げても

実に容易ならぬ問題ばかりであって、


このままでは人類はまさに

破局の危機に直面しているといっても過言ではありません。


 そしてもう一つ大きな最後の危機は、

このような人類の危機的課題に対し、

「もう何をやっても事態は良くならない」という

ニヒリズムに陥る危機であります。

そのようなニヒリズムは、例えば、オゾン層破壊の問題でも

「自分の生きている間は大丈夫であろう」という逃避主義となり、

自分だけの刹那(せつな)の快楽を追い求める

極めて利己主義的な生き方になってしまいます。

このような考えの人が増えていくとしたら恐るべきことです。

 どのようなことにでも結果があれば必ず原因があります。


今日の人類の危機は、一体どこにその起因があるのでしょうか。


そこには人間の深い迷いが思えてなりません。

その迷いの内実はあくなき欲望を追求してやまぬ

人間中心主義に根ざしていると思います。

 近ごろ「地球にやさしい」とか

「共生」といった言葉がよく聞かれます。

しかし「地球にやさしい」ということも

一体どこに立って言っているのかということです。

虫も魚も鳥も住めないようでは人間が住めるはずがない、

だから地球にやさしくしよう

というのなら所詮(しょせん)は「地球にやさしく」ではなく

「人間にやさしく」という人間中心主義を

一歩も出るものではありません。

 もし人間と自然が対等の関係であって、

人間はその持てる能力によって自然を支配することができる。

またコントロールすることができる

などと思うのはとんでもない思い上がりです。

人間はどこまでも自然的存在、

自然の一部として生かされている存在であるという

人間自身の分限をよく自覚することこそが、

最も大切であるのではないでしょうか。


能邨英士
<産経新聞−語る−欄1995(H7)年5月17日掲載>