笑い

笑いにも大笑、苦笑、忍び笑い、

嘲笑(ちょうしょう)、微笑等々、いろいろありますが、


やはり心意(ひ)かれるのは快心の笑いかもしれません。


 これまで実にたくさんの笑顔に出会ってきましたが、


私には忘れられない最高の笑顔があります。


長女がちょうど生後十カ月余りのころ、

元気よく這(は)って遊んでいたのが


突然何の支えもなしに自分の足で立ち上がったのです。


生まれてはじめて両足で立った、その瞬間、

何ともいえない笑みがこぼれたのです。


全身に喜びが溢(あふ)れるという光景でありました。


非常に印象深くその笑顔が心に焼き付いております。


それは、その笑顔を見た私にとっては、

出世の本懐を思わしめるものでありました。


出世の本懐とは、この世に人と生まれてきて、


このこと一つというような最も根源的な願いが

満足するということであります。
 

笑いについて、もう一つ心に刻まれているものがあります。
 

釈尊(しゃくそん)の時代、

王舎城の太子である阿閣世(あじゃせ)の反逆によって、


無道にも王である夫が殺され、

それを助けようとした韋提希(いだいけ)夫人自身が


王宮の深くに幽閉されてしまいます。 


 平和な家庭が一挙に地獄のどん底に突き落とされ、


その苦しみの中から韋提希は釈尊のお弟子に救いを求めます。


思いかけず釈尊自身が韋提希の前に現れます。


彼女は王妃のプライドも何もかも投げ出して


洗いざらい愚痴を吐き出したことからようやく心がしずまり、


二度と地獄、餓鬼、畜生の生き方を繰り返すことのない


浄土に生まれ往(ゆ)く道を教えてください

と釈尊に願われるのです。


 釈尊は思わず「微笑(みしょう)」されて、


一人の悩める夫人・韋提希に教えを説き始められるのです。


韋提希が深い悲しみと苦悩の中にあるのに


何故(なぜ)釈尊は他人の不幸を楽しむかのように

「微笑」されたのでしょうか。


それはこの悲劇を通して

韋提希は人間が本当に求めている道を問うことができた、


この人間としての根本課題を見い出した韋提希に対し、


仏陀釈尊は心から祝福し満足されて

思わず「微笑」されたのでありましょう。


 そして、よくよく考えてみれば、

笑って暮らせることは、まれなことであります。

しかし、だからといって、まるで自分一人で世の苦労を引き受けて

生きているというのもどうでしょうか。

「人に生まれた悲しみを知らないものは、

人と生まれた喜びも知らない」


という言葉がありますが、実は、喜びも悲しみも、

人生そのものからの贈り物なのでしょう。

そうとすれば、わが人生は、

深い「笑み」のうちにこそあったことを

教えられるではありませんか。


能邨英士
<産経新聞−語る−欄・1995(H7)年5月30日掲載>