希望

 

もの心がつき始めると、人は希望に胸ふくらませ、

希望とともに生きるようになります。

 希望は、叶(かな)えられるときのことよりも、

むしろ叶えられないときに、どう受け止めるかが深刻な問題です。  

希望が叶えば得意になり、有頂天になりますが、

その幸せも、壊されるときの苦しみは、

地獄の苦しみよりも甚(はなは)だしいといわれます。

人間の予測を破って、

いつ絶望的な状況がおとずれるかも分かりません。


 アウシュビッツの強制収容所から奇蹟的に生還された

フランクル教授の体験記録の中には、目をおおわずにはおれない

地獄の状況が報告されています。

 精神医学者として妻と二人の子供に恵まれ

平和な研究生活を続けていた教授が、

ナチスドイツによって一家は 皆逮捕され、

恐るべき集団殺人の施設へ送り込まれました。

アウシユビッツだけで三百万の人命が

絶たれたといわれていますが、

教授の両親、妻、子供もガスで殺されあるいは餓死し、

暴虐非道なナチスの犠牲になりました。

このような、絶対にあってはならない地獄を、

私どもは決して遠くに見ることはできません。  

この強制収容所の過酷な現実に、

「もはや人生から何ものも期待できない」

と絶望し自殺にかられた人が、

同じ囚人のフランクル教授の語りかけによって、

愛情をもって待っている人がおり、

まだ仕上げなければならない仕事があることに気づかされて

希望がわき自殺を思いとどまったと伝えています。

また教授自身、いつガス室に送られて

殺されるかもしれない 明日なき収容所の中で、

心理学者として体験記録の原稿を命がけで

窃(ひそ)かに記していました。

驚嘆のほかありませんが、このことは、人間が

地獄に拘束されて絶望しかない極限状況の中でも、

希望や目的など、生きる意義を見い出し、

そのことを証(あかし)せずにおれない

精神的存在であることを教えてくれます。

人生が思い通りにならない以上、失意であれ絶望であれ

その現実をどう受け止めるかに

その人の生き方のすべてがかかっています。


親鸞は、「念仏者は、無碍(むげ)の一道なり」と、

念仏の生活によって何ものにも碍(さまた)げられない

人生の大道が与えられると教えられています。

どんな状況におかれようとも、

そこで人間の生きる意味を見い出し、

他の何ものにもかえることのできない

いのちの尊さを学ぶことができるということであります。

 この無碍の一道に立ってこそ、

どのような逆境や失意の中からも

希望がかぎりなく開かれてくるのでありましょう。


能邨英士    
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年6月20日掲載>