豊かさ
戦後五十年、経済優先にひた走って経済大国日本と


いわれるまでになり、その言葉にも驚かなくなりました。


 それは、人間の欲望に限りのないことの証左かもしれません。


エコノミックアニマルという呼称をもらっているだけに、


一人ひとりが、本当の豊かさとは何かということを


真剣に考えなければならない時に遭遇しています。
 

有史以来の、思ってもみなかった繁栄が実現したわけですが、


それが一部・表層のものであり、


必ずしも人間の豊かさや幸せにつながりませんでした。


過労死やストレス症候群の激増、家庭崩壊や老後の不安、


いじめや自殺に象徴される人間関係の亀製の深さ、


さらに環境破壊やごみ処理問題など

内外とも深刻な問題の渦中にあるといえましょう。


いずれにしても、豊かさを物質的な繁栄のみに期待することが


迷妄であったことははっきりしてきました。


にもかかわらず、人間の欲望が益々(ますます)肥大化の


一途をたどり満足することを知らないのは餓鬼の姿そのままです。


源信僧都(げんしんそうず)は『往生要集』に、餓鬼のひとつの姿として


「ロは針の孔(あな)の如く、腹は大なる山の如し」と示されていますが、


物のあふれる中で、人間の不信や孤独、欲求不満など、


飢え渇いている現代の人間と重なってきます。


今、何よりの急務は、文明の利器を駆使しながら内実は餓鬼となっている


現実の生き様を先ず直視することです。


この世の人間の迷いの深さとその痛苦を凝視された源信僧都は、


偈(げ)を引いて「足ることを知らば貧なりといえども富と名づくべし、


財有るも多欲なるは是を貧と名づく」と教えていますが、


さらに「得難い人身を得ても、仏法に遇(あ)い、


自らの姿に目覚める信心を生ずることが最も困難である」(取意)と、


仏法を求めて、空しく生きることのないようにさとされています。


生涯を聞法者・念仏者として生き、家も財産も持たれなかった

名もなき市井の求道者というべき木村無相さんは、


「おん(御)同朋」という念仏詩に、

「右を見ても おん同朋/左を見ても おん同朋/

前を見ても おん同朋/後(うしろ)を見ても

 おん同朋/みんなみんな おん同朋」


(『念仏詩抄』永田文昌堂)と讃えています。


よき師・よき友との出遇いを通して、


仏法に生かされていると気づいたことで誰も彼も、


命の絶対平等に生きるおん同朋であり、


互いに真の知己であるといえるこの「おん同朋」の世界こそ、


尽きることのない本当の豊かさではないでしようか。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年7月4日掲載>