孤独
孤独ということを今日の世相の中で考えるとき、


「孤老の死」という見出しの報道に象徴されるように


老いが孤独につながっていくような深刻な問題があります。


それは、高齢者の間だけではなく、若年層向けの雑誌などに、


「いかにして友だちをつくるか」という特集が組まれるほど、


若い人たちにとっても避けられない問題となっています。


塾通いに追われるなど、自由な時間や遊びを奪ってしまった


合理主義的管理社会のしわ寄せが露呈してきたといえましょうか。


温(ぬくも)りの伝わる愛情や信頼を求めてやまない人間には、


孤独地獄という言葉もあるほどに孤独は不安で耐えがたいことなのです。


釈尊は、人は世間の愛欲の中にあって、


「独り生じ独り死し独り去り独り来(きた)る」ものであり、


人生の苦楽もこの身自らが引き受けるほかなく、


誰(だれ)も代わることはできないと諭されています。


自分だけは絶対に孤独になりたくないという切実な願望も、


それが自己愛にもとづく執着であったと気づかされるとき、


はじめて私どもは、「独生独死 独去独来」の

本来孤独なる身の事実に領(うなず)き、


どのような人生であれ、自ら果たし遂げるほかない


厳粛な人生として受けとめることができます。


そこに開けるものこそ、「つくべき緑あればともない、


はなるベ縁あれば、はなるることのある」(親鸞)


人間の執着を超えた自在なる交わりであります。


こんなことを聞いたことかあります。


ある囚人となられた方が、独房の窓から迷い込んできた、


こおろぎか何かの虫との出合いが始まったそうです。


彼はその虫に声を出して話しかけ、こよなく愛して、


独房の中の孤独がどれほど癒(いや)されたことか・・・。


彼は、独房から離れる日、後から入る人に


ぜひこの虫を大切にするように伝えて欲しい、と看守に頼んだというのです。


 囚人となられた方が一匹の虫に出合ったのが


まさに孤独の中からであったように、


孤独は人間にとっておそるべきものではなく、


むしろそこから広い世界か開かれていくものであります。


本当に孤独を知るものこそ出合いのよろこびを


深くかみしめられるのではないでしょうか。


私どもがおそれなくてはならないのは孤独ではなく、


孤立することです。孤立は自らの生き方をよしとする余り、


他を認めず拒否します。自分を認めないものに対しては


いきどおりとなり、恨みともなります。


私どもの内にはたらく独善的なおもいこそ、


人との出合いと交わりを閉ざしていくものでありましょう。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年7月11日掲載>