挑戦
あかときに見しゆめはしも友と二人 荒野をかける吾れに足あり」


三歳のとき、突発性脱疽(だっそ)で両手両足を途中から切断され、


苦難の多い七十二年の生涯を遂げられた中村久子さん


(1897−1968)の晩年の歌です。


老いてなお、「吾れに足あり」と夢にまで見られたところに


あきらめ切れぬ思いがしのばれます。


伝記によりますと、七歳のとき父の死に会い、


一家を襲った過酷な現実の中で、お母さんと祖母は将来を考えて、


久子さんが自立できるように厳しく育てられました。


小学校にも行けなかった久子さんは、祖母から勉強の手ほどきを受け、


お母さんからは針仕事ができるよう容赦なくしつけられました。


手足のない身には、まるで不可能への挑戦でした。


悪戦苦闘してもできないと音をあげると、お母さんは


「できないからといって止めてしまったら何もできません。


できないというのは横着だからです」としかられたとのことです。


残された手足や口、体を総動員し、


血と涙のにじむ努力の末にやっと糸を通して針が運べるようになった、


その喜びはたとえようがありません。


久子さんは二十歳で見せ物小屋に入り、口を使って書を書いたり、


縫い物をするなどの芸を見せて自活し、

以後二十二年間、その生活を続けました。


その間、結婚生活に入り、子供を出産した喜びも束(つか)の間、


夫との死別など、筆舌に尽くせない苦難に出会います。


そんな中で、座古(ざこ)愛子女史(寝たきりで女学校の購買部を受け持ち、


身体「障害者」の相談に応じていた)やヘレンケラー女史、


さらに『歎異抄』に出遇えたことは、

久子さんの人生に忘れることのできないものです。


久子さんは、「四肢なき身が、私の善知識であった」と述懐され、


「手足なき身にしあれども生かさるるいまのいのちはとうとかりけり」


とその感動を歌っています。


考えてみますと、私どもは、飛ぶ鳥を見て自分も空を飛べないかと思うような、


何かにふれて本能的に自己をつき動かす意欲にかられる存在であります。


挑戦とは一人ひとりの中に潜在している能力を


可能な限り開発せよとの促しでもありましょう。


久子さんも、よき人びとの励ましを受けて、


もてる能力を開発し切り、いのちの完全燃焼をされたのであります。


ただ私どもには、他を意識したり、


失敗するなら止めておこうというような打算がはたらきますが、


そのような打算を超えて精一杯の努力を惜しまない。


そのような生き方をしたいものであります。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年7月18日掲載>