言葉
たくさんの言葉を知っている人も本当に必要な言葉を


知っているといえるでしょうか。


ある先生が、小学低学年の子供から、


「人間はどうせ死ぬのに何故(なぜ)生きているの」と聞かれて、


返す言葉がなかったという話を聞きますと、他人事とはいえません。


知識としての言葉は豊富であっても


人間そのものを問いかける言葉にはなかなか答えられないものです。


私の知り合いの方の中でこんなことがありました。


三世代が同居している若夫婦の一歳余りの子供が、


ある日、仕事から帰ってきたおじいちゃんにまとわりついていたのですが、


着替えをしていたときにたまたま孫が離れていったのに気づきませんでした。


孫に声をかけようとするとその姿が見えない。


あわてて探すと浴槽の中に落ちて死んでいた。


一家はたちまち地獄のような悲嘆にくれました。


やがて集まった親せき知人も涙ながらのお悔みの中から


「たくさん大人がおって何故こんな悲しい事故が起きたのか」

という繰り言がもれ、


身が切られるようなおさまりのつかない状態になりました。


その時、おじいちゃんが「そんな事故の詮索(せんさく)ばかり繰り返しても

どうにもならんでないか。みんなでお念仏を申そう」と


呟(つぶや)かれた言葉に、やっとみんな我(われ)にかえり


一緒に念仏申されたというのです。


もし、「お念仏申そう」との一言が聞かれなかったら、


誰が悪いというよしあしの裁きになったり、

不運をのろったりして悲しみの上に更(さら)に、


この家庭自体も引き裂かれたかも知れません。


ただ念仏申すよりほかないということによって、

泣きながらも、 どうにもならぬ事実を受け止めるしかないと

頷(うなず)くこととなったのです。


そして、小さな命の死が悲しみの中からかぎりないいのちの尊さを


気づかせてくれることとなったのです。


親鸞は主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に


「真理の一言は悪業を転じて善業と成す」という言葉を引いて


念仏のはたらきを讃(たた)えていますが、


真理の一言(お念仏)に出遇って初めて闇中に光がさすように


私どもの生活がよび覚まされ、人間であることの弱さに頷き、


いのちの尊さに気づいて生きる人生へと転ぜられるのであります。


光を浴びて氷が自然に溶けるように、真実の言葉はかたくなな心を解きほぐし、


人としての悲喜をいのちのあるかぎり深めてゆきます。


「どうせ死ぬのに何故生きているの」という問いは


そのまま忘れてはならぬ人間の根源的な内奥からの問いであります。


この問いの持続するところ必ずや

真理の一言に出遇わしめられるでありましょう。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年7月25日掲載>