思いやり
私が若い時に、ある法話の席で一人の老師が


農家のおばあさんたちに

こんな話をされたのを聞いたことが印象に残っています。
 

農家でお嫁さんを迎えるということになると、


大体農作業の働き手としての条件が優先し、力が強くて病気知らずで、


野良仕事に精出す人が求められます。


そのような人を探してやっと迎え、初めはよく働く嫁が来てくれたと喜んでいても、


しばらくすると、うちの嫁は何とも根性のきつい人で、どうにもならん、


姑(しゅうとめ)を姑とも思うておらん、というようになってしまう。


舅(しゅうと)や姑が病気しても、

病人のつらさが分からんので全く思いやりかない。


思いやりがないといっては、かぎりなく愚痴をこぼす。


 そんなのは余りにも身勝手な話で、自分が求めたことではないか。


大体、欲張り過ぎる。

病気をしない、働くことしか知らないような嫁を求めておりながら、


自分が病気になったからといって痒(かゆ)いところに


手が届くような病人を思いやる心を求める。


病気の体験のない丈夫な者にどうして病人のつらさまで思いやれるのか。


思いやろうにも思いやりようがないではないか、というようなお話でした。


 たしかに、人間の思いやりといっても、

「我(わ)が身をつねって人の痛さを知れ」


また「同病相憐(あいあわ)れむ」というように


所詮(しょせん)は自分が体験した範囲で思いやるというのが


精一杯(せいいっぱい)でありましょう。


いつも自分の体験が間尺になっていてそれを超えることは容易ではありません。


 ところで、他を思いやることも大事ですが、


一体自分自身に対してどれだけ思いやっているでしょうか。


 安田理深(1900ー1982)という先生が「一生かかって一人たすけよ。

その一人は自分自身である」と言われています。


本当の意味で自分自身を思いやったことが一度でもあるのか


という声が聞こえてくるようです。


隣の畑のことや他人様のことについては色々(いろいろ)言えても、


その我が身が問われますと、

自分の都合ばかりにとらわれている姿が知らされます。


本当に思いやる心ひとつ起こすことのできない我が身であったと気づかされ、


このような我が身が生かされていることに驚きを感じます。


そういう自分か明らかになってくれば、


当然お互いが自我一杯の身として明らかに見えてきます。


そういうところから、人生を生きることの苦労が本当に共有・共感されてきます。


そうなりますと、「生きるということは、お互い大変ですなあ」という

思いやりの心が自然に起こってくるのでありましょう。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年8月8日掲載>