貧しさ

貧しいか富めるかということは、

やはり金銭や物の多少によっては、 決められないものでありましょう。

物質的に貧しくとも、心は豊かということかありますし、

その反面、物質的に富めるものが、心貧しいということもあります。

 私の世代は、あの第二次世界大戦中に

小学校、国民学校の時代を過ごしたのでありますが、

「欲しがりません勝つまでは」という耐乏生活は、

まさに「無い無いづくし」の生活でありました。

でもそのような生活を決して貧しいとは感じませんでした。

何故ならば、右を見ても左を見ても

豊かな暮らしの人は一人もいなかったからです。

ただ物資の不足がこんなに困ることかという思いは、

骨身に徹して知らされたものであります。

 しかし、そのような耐乏生活の中からでも

子供たちはいろいろ工夫をし、模型飛行機や竹トンボ、

さらには竹のスキーをこしらえたりして遊びに熱中し、

結構楽しんでいたものであります。

 さて、仏教では四苦八苦の苦しみの一つに

「求不得苦(ぐふとく)」という苦をあげます。

求めたものがどうしても得られない苦しみです。 

石川啄木は

「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る」

と詠んでいますか、

求めて得ざるものの苦悩の思いがよく実感させられます。

 それにしても私たちの「求めるもの」とは一体何でありましょうか。

今は亡き先輩、嶺藤亮元宗務総長は「求めるもの」を

「欲しいもの」と「必要なもの」とに分けて教えてくださいました。

いわく、「君たちは欲しいものを買おうとするから金が足りないのだ。

欲しいものは不要のものだ。実際に必要なものを買いなさい」

と論してくださったのを懐かしく思い出します。

古来より「起きて半畳、寝て一畳」という諺があります。

どのように立派で広壮な邸宅に住んでいても、人は起きて座れば半畳、

寝れば一盤の広さがあれば事が足りるということであって、

そこに我々(われわれ)の分限というものを思わずにはおられません。

 清沢満之(まんし)先生(1863-1903)は「絶対他力の大道」の中で、

「請うなかれ、求むるなかれ、汝(なんじ)何の不足かある。

若(も)し不足ありと思わば是れ汝の不信にあらずや」

と非常に厳しい問いを投げかけてくださっています。

 おもうに我々は、生きるに必要なものを

すべて賜(たまわ)っているにもかかわらず、

その事実を忘れ去り飽くなき欲望に目が眩(くら)み、

賜っている世界を見失っている。まことに我が身に対する不信であります。

 願わくば、貧しくとも富めるとも心貧しきものとは、なりたくないものであります。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年8月22日掲載>