師
およそ教育活動をぬきにして師という存在は成り立ちません。

教育活動には、一般にいわれる知識や技術などの伝達だけではなく、

大切な人間の教育があります。

「人間が人間を人間にまで高める活動が教育である」といわれています。

この場合、「人間が」というときの人間は先生であり親であり、

そして「人間を」というのは生徒であり子供でありましょう。

ところで、「人間にまで」というときの「人間」とはどういう内容であるか

ということになりますと、必ずしもその人間像は明確でありません。

 古来、人間は万物の霊長であると言い、

尊厳なる存在であると言ってきましたが、

すでに人間はアウシュビッツや広島・長崎という

取り返しのつかぬ罪を犯しています。

一体、人間はどこに立って尊厳なる存在といえるのでしょうか。

今ほど、人間そのものが根本的に問われている時代はありません。

人間とは何か、自己とは何か。

この問いに対して導いてくださる人こそ真の師といえるのでありましょう。

もし、人間の根本問題が明らかにならないならば、

科学技術や知識でもってどれはど便利で豊かな文明が築かれようとも、

その全体が空(むな)しい営為としてついえるのであります。

 かつてM師からこんな話を聞いたことが憶(おも)い出されます。


大阪で金融業をしていた人が、どうせ世間からよく言われないのだから、

とことん悪知恵をはたらかして金を儲(もう)けよう。

それには法の網をくぐるのが一番だと、法律を一生懸命に勉強して、

時にはあこぎなことをして金儲けをしたそうですが、

「天網恢(かい)恢疎にして漏らさず」の言葉のとおり、

ついに悪事を摘発され刑務所に収容されました。

たまたまそこで出会った『仏説無量寿経』を暇に飽かせて読んでみると、

その「下巻」に人間の悪事のあらゆる姿がまざまざと説かれている。

お経というのは善人になることばかり説いているのかと思っていたが、

わしみたいな悪人も考え及ばないほどの人

間悪をすでに釋尊は見徹(みとお)しておられる。

そのことに全く驚き、衝撃を受けて仏教に対する考え方が一変し、

彼は出所後、師を求めて仏教を真剣に学ぶようになり、

ついに念仏の教えを心から喜ぶようになったということであります。


 おもえば、人間の愚かさと罪悪性を徹底的に気づかしめる、

そこにこそ、よき師との出遇(あ)いがあります。

この人間の無明性や罪悪性に目覚めたときに

本当に謙虚に生きる道が私の上に開かれます。

そこに、有り難い人生を賜(たまわ)ったという喜びが

自(おの)ずから涌(わ)いてくるのでありましょう。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年8月29日掲載>