民族
人類の歴史は民族興亡の歴史でもあります。

ことに二十世紀は「民族の世妃」といわれるほど、

民族の独立運動か次々起こりました。

一方、民族のエゴは随所で不幸な植民地支配を企ててまいりました。

世紀末の今も民族紛争が絶えず、

無惨(ざん)にも多くの人びとの命が奪われています。

 民族や人種の確執を超えて、あらゆる人びとが共存し得る平和な世界を

実現することは人類永遠の課題であるといえましょう。


 釈尊の時代、釈迦族が隣の巨大なコーサラ国におかされましたが、

殺し合うことの無意味さと罪の深さを知るの余(あま)り、

あえて武力をもって争うことなく滅ぼされたということが今、想起されます。


さらにまた、親鸞が「和国の教主」と敬われた聖徳太子一族の滅亡

のことがおもわれてなりません。

 太子が作られたわが国最初の「十七条憲法」では、

「和を以て貴しと為(な)す」(一条)、

「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」(二条)「我必ず聖(ひじり)に非ず。

彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ」(十条)の、

これらの言葉に太子の精神が余すところなく表されていると思います。

 太子は当時、氏族間の反目と闘争が絶えず、

血で血を洗うような現実を目の当たりにした中から、

何よりも和が根本であると「和国」の実現を願われたのです。

その依(よ)り処(どころ)となるものは三宝であり、

三宝を敬う中から如来に照らされて、「共に是れ凡夫ならくのみ」と

平等なる人間存在の自覚こそ、最も大切であることを示されています。

 しかし、太子亡き後、蘇我一族は専横に走り、蘇我入鹿(いるか)は

不都合な山背大兄王(やましろのおおえおう・太子の子、

皇位継承の有力な候補者)を排除し、遂(つい)には襲撃します。

軍勢に囲まれた山背王は「私は、兵を起こせば必ず勝てる。

しかし、一身の故をもって百姓(おおみたから)を死傷させることを欲しない。

わが一身をば入鹿に賜(たま)う」と言って、

一族は自ら命を絶ち壮烈なな最後を遂げました。

聖徳太子の精神に生きればこそ、

百姓(おおみたから)を犠牲にすることを欲せず、自ら捨身されたのであります。


 この事実から学ばなければならないのは、非戦平和をとなえることは、

まことに容易ならざる覚悟が要るということでありましょう。

 そこで、今われわれ、全世界の人びとに求められていることは、

釈迦族のごとく、また山背大兄王のごとく、

どこまでも非戦の決意に徹していける覚悟が

本当に定まっているかどうかということだと思います。

つまり、民族が共存し得る平和な世界の実現のために、

今、日本民族は一度そこまで徹底した思索を

深めなければならないように思えてなりません。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年9月5日掲載>