日本の豊かな食文化を思うにつけ、
今も飢餓に倒れている人びとのことを忘れることはできません。 食わなくては生きられないことは誰でも承知しており、 また、何か事が起こると「これでは食べていけません」という言葉が 口をついて出るほど食うことを忘れたことのない私たちですが、 それでは「食うために生きるのか、生きるために食うのか」 と質問されると、どう答えられるでしょうか。 私は蓮如(れんにょ=1415年−1499年、本願寺第8代、真宗再興の祖)の 晩年の言葉が憶い起こされます。 「衣食支身命とて、食うことと着ることとのふたつかけぬれば、 身命やすからずして、かなしきことかぎりなし。 まず、着ることよりも食うこと一日片時もかけぬれば、 はやすでにいのちつきなんずるようにおもえり。 これは人間においての一大事なり、 よくよくはかりおもうべきことなり」という言葉ですが、 五百年の歳月の隔たりを超えて今も身につまされます。 私どもにとって、衣・食・住のみな、 無くてはならないものですが、なかでも食うことが切実です。 蓮如自身、当時の本願寺のさびさびとした状況と長い部屋住みの生活の中で 家族ともども、食うや食わずの飢渇と貧困の体験をされましたが、 この言葉にはそれがにじんでいるようです。 しかし、蓮如はそのなかでたゆむことなく親鸞の聖教を学ばれました。 食わなければ生きられない人間の悲しみのぎりぎりのところで、 なお親鸞の教えに、生きることの意味を問いたずねずにはおれなかった 蓮如の姿に、人間としての志願の深さを教えられます。 人間は、食だけで生きるものではなく、 本当に有り難いいのちを賜ったという喜びに生きたい存在なのです。 考えてみれば、どんなに粗食でも一椀の食が無ければこの命を保てません。 自らの生命を養うために実に多くの生命を頂いているのです。 食が生命そのものと言っても過言ではないほど、 いのちと同質の重さをもったものであります。 このことに気づけば、徒(いたずら)に食うだけでは済まされません。 自分の前に運ばれてきた食物に手を令わせずにはおれないのです。 よく、「空腹にまさるご馳走(ちそう)はない」と言われますように、 飢えを通して食の本当の味が知られ、生命の重さが憶われるのでありましょう。
翻弄(ほんろう)されて、本当の食の尊さ、いのちの尊さを 忘れているならば誠にはずかしいことであります。 必ず、食前食後には、食を拝んで頂きたいものであります。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1995(H7)年9月12日掲載> |