お金
人間の知恵が産み出したお金によって、生活が便利になり

経済の流通がスムーズに行われているのも事実ですが、

半面、生活の豊かさを競う余り人間がお金に縛られ、

金銭にまつわるさまざまな争いや犯罪、さらには破産の地獄苦に悩まされ、

命を断つものが絶えないのも悲しい現実です。

私は、蓮如(れんにょ=1415年−1499年)が「堺の日向屋は、

三十万貫持ちたれども、死にたるが仏にはなり候うまじ。

大和の了妙は、帷(かたびら)一つをも着かね候えども、

此の度、仏になるべきよ」

と言われていることに驚嘆と深い感銘を覚えるのであります。

戦国乱世にあって三十万貫(今の二百億円くらいか)の

富を蓄えた豪商の日向屋と

ひとえの着物ひとつ買えないような貧しい女性の了妙。

蓮如自身、生きるためにはお金がどれほど大事であるかは

骨身に泌(し)みて承知のうえで、なおこのように、

一見、富を否定するようなことを言われるのは何故でありましょうか。

それは富を否定するのではなく、

お金にかぎりなくとらわれていく

その執着心を否定しているのであります。

そして、貧しくともお念仏の教えに遇い、

人間の尊さに目覚めた了妙の生き方は美しく輝いている。

この人生において、何が最も大切であるかを如実に語られていると思います。

求道の先達である相田みつお氏の

「そんかとくか 人間のものさし うそか まことか 仏さまの ものさし」

という言葉には、損得の計算を離れられない人間のすがたが

仏さまの智慧を通して言い当てられています。

生活のことごとくが量や数値で計られ金銭に換算されて、

損か得かに血眼になる人間。

幸せを求めて、これを加えあれを加えというように、

学歴や経済力などを自分に加えていく生き方です。

だが、どれだけ加えても満足できません。

それに対して、仏さまの智慧(ものさし)は、量や数値にとらわれ、

損か得かということから一歩も出ることのできない私たちの生き方が、

南無阿弥陀仏のお念仏によって徹底的に批判され、照らし出してくださる。

そういう徹底的な批判に遇い、自らのすがたが知らされるとき、

これまで当たり前だと思っていたものが当たり前ではなかった

という世界に気づいていきます。

このいのちひとつ賜(たまわ)って生きているということが、

いかに不可思議な、自分の思いを超えた世界であることか。

そこに、損か得かの思いで何ものとも比べる必要のない、

自己の分限が覚知され、絶対平等なるいのちに頷(うなず)いて、

この身に感謝して生きる生活が始まるのであります。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1995(H7)年9月19日掲載>