人間にとって未来がどうなるかということは、
古今東西を問わず大きな関心事の一つです。 科学技術の進歩した現代でさえ、占いや姓名判断などによって運勢を 見てもらうことが若い人びとを中心にひろがっているのは、 単に遊び心というだけではないものを感じます。 明日のことが分からないから知りたいということは一応もっとものようですが、 実は今日を生きる不安や、本当の意味の充足感のなさの表れともいえましょう。
世界的な仏教者である鈴木大拙先生(1870−1966)が、 たまたまアメリカの有名な心霊学者に会った時、 その学者は死後の世界について滔々(とうとう)と話しました。 ところが、大拙先生が一向に熱心に聞こうとしないので、 「あなたは死後の世界が気にならないのですか」と詰(なじ)るようにたずねると、 間髪を入れず、「死んでからでは遅いではないですか。 今、どう生きるかが問題です」と答えられたということです。 この言葉は、死後の世界といういわば未来がどうであるかが問題ではなく、 人間にとってはあくまでも現在只今の事実こそ最も確かなものとして、 その現実を頂いていかに生きるかということこそが 大切であると教えられていると思います。
希望と絶望の間を揺れ動きます。「こんな筈(はず)ではなかった」 「何故(なぜ)自分だけがひどい目に」と思ってしまいます。 絶体絶命の状態の中でも一縷(いちる)の望みにすがり 奇蹟(きせき)を期待せずにおれないのが人間の偽らざる姿でありましょう。 しかし、事実を事実として知らせる真実の智慧にふれ、 かぎりない我執の思いにとらわれている身が明らかになるとき、 はじめて、病床に身を横たえている現在の事実が、偶然ではなく 成るべくして成る法のはたらき(他力)の中にあったと 頷(うなず)けるのでありましょう。 この目覚めの時こそ、人間の妄念妄想の思いがひるがえされて、 この身の事実に立つ「今」であります。 そこに、「今からどうなるか」と、我が思いにとらわれて悩んでいた人間が、 「すでに成るように成っている」、 いのちが我が身の事実となって成就していることに気づき 確かな生を頂くのであります。 未来は、どこまでも未(いま)だ来らざる世界であり 人間にとって分からない世界ですが、 分からない世界だからこそ分かる必要のない、 私の分を超えた世界だと気づかされます。 そのとき、「未来」ではなく「当来」(まさに来るべき確かな世界) という意味に満ちた時を生きる者となり、 現在に安んじて生きる境地が開かれてくるのであります。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1995(H7)年9月26日掲載> |