動物の世界で、人間だけが限りなく勝ち負けに執らわれ、
優越感と劣等感にふりまわされて大切な自分自身を見失っています。 生命の誕生を素直に喜ぶ感動も、すぐに幼児の英才教育熱にかられ、 やがて偏差値に心奪われていくことになります。
広島県のある高校でのこと、学級対抗の水泳リレー競技のため、 その学級では三人の選手はすぐ決まったのですが、 残り一人がなかなか決まらず、 そのクラスの番長がAさんを指名しました。 Aさんは小さい頃小児まひを患って泳ぐことが下手なので、 彼女を笑いものにしようという下心があったのですが、 番長が怖くて反対する者はいませんでした。 当日、Aさんは懸命に泳いだのですが、 遅いうえに泳ぎ方が不格好なのでみんなドッと笑いました。 その時、背広のままプールに飛び込んだ人がいます。 校長先生でした。「つらいだろうが、頑張っておくれ」と、 Aさんを泣きながら励まし、一緒に泳いだのです。 この光景に全校生徒は粛然とし、二人がやっとゴールにたどり着いた時には、 皆泣きながら拍手を送りました。 それまでとても荒れていたその学校が、次第に平静さを取り戻し、 見違えるほど立派になったというのです。 とかく、われわれの考えは、早いものは勝(すぐ)れ、 遅いものは劣っている、 偏差値も高いものは善く低いものは悪いと思い込んで、 まるで烙印でも押されたような 優劣や善悪の価値観の虜(とりこ)になっていないでしょうか。 この高校での出来事は、数値や比較、人間の固定観念では計れない、 裸の人間の輝きに期せずして出遇った尊い体験となったのでしょう。
生活の全体が数値に換算されて勝ち負けに執らわれてしまい、 人間そのものを見失いがちです。 勝ち負けに対する限りない執着は、他をも傷つけ、 自らの心も暗く閉ざしていきます。 人間のこの深い執着があさましいと自覚され、 勝ち負けだけに生きがいを感ずるのが人生ではなく、 努力に意味が見いだせる人生があると実感出来たとき、 はじめて争いを超えていけるのでありましょう。 人は能力も異なり持ち味も違うでしょうが、何ものとも比べる必要のない、 いのちあるものが皆輝いている世界を釈尊は 「青い色に青い光、白い色には白い光」(『阿弥陀経』)と讃えています。 果てしない競争心に引きずり回されて自他を傷つけ見失うのではなく、 お互いに尊重し合い、どこまでも話し合っていける 豊かな人生を生きたいものです。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1995(H7)年11月2日掲載> |