今年も、もう歳末。 クリスマスの計画に華やいだ気持ちの人もあれば、 なかには切羽詰まった問題を抱えた人や、実にさまざまでしょう。 しかし、平凡な歳末であれ、切羽詰まったものであれ、 ただそれだけで終わるなら、日常の中の出来事という他はありませんし、 それは、夢幻のごとく終わる人生の中の一こまであります。 親鸞は、そのような姿を「空(むな)しく過」ぎる人生と悲しみ、 蓮如は「ただいたずらに明かし、いたずらに暮らして、 年月を送るばかりなり」と嘆いています。 もし、自らの人生が空しく過ぎるなら、それに最も耐え難いのは自分自身です。 人間は必ず心の奥深くで、空過することのない、 光り輝く人生を求めているのに違いありません。 どうしたらそのような人生を見い出せるのでしょうか。
人びとに呼びかけられた中国の善導大師(七世紀)の言葉が 憶(おも)い起こされます。 「四流」とは、いわば欲望や執着の虜(とりこ)となり、 濁流渦巻く暴河に流されていくような日常生活を言います。 「横」とは、日常性を断つことです。 これは先ずもって立ち止まることです。 人生の意義を問い、自らの在り力をこれでよいのかと、 自身を問うことであります。 立ち止まると、自分の都合に引きずり回されている姿に気づかされ、 そこに虚仮という他ない人生が見えてきます。 このような目覚めの体験のない生活は、まさに自己を見失った生活です。
ひとつ運が悪ければ人生が行き詰まると思い込んでいます。 だから、不測の出来事が起こると、自制の心を失って自暴自棄の行動に陥り、 気がつけばどうにもならぬ後悔の念にかられるのであります。 はたして人生というのは、本当に運・不運によって 開けたり行き詰まったりするものでしょうか これでは年も越せない、というほどに困った事があったとします。 困った事は困った事に違いありませんが、 その困った事を引き受けるというところに立てば 困ったままに道が開けます。 しかし、困った事が片づいても、 また、事に当たれば困る自分が残っているのも事実です 安田理深先生は「人生が行き詰まるのではない。 自分の思いが行き詰まるのである」と教えられています。 人生を行き詰まらせる事が外にあるのではない、 困るような自分がいるのだという事に気がつけば、 日々の忙しさに流されそうな歳末の中にも、 更(あらた)めて人生の大事を憶わしめられることであります。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1995(H7)年12月19日掲載> |