厳しい寒さを経て迎える春は実に感動的ですが、
人生の春もそれに劣らずドラマに満ちています。 もう一度青年時代に帰してくれるなら財産も地位も全(すべ)てを投げ出す、 と言った有名な実業家がいましたが、この人の言葉を待つまでもなく、 青春は何ものにも替え難い、命輝く日々であります。
一流大学に入るための受験勉強に追い立てられる雰囲気の中で、 次第に学生生活になじめなくなりました。 そんな中で、「一体、何のために勉強するのか」、 「俺(おれ)は何のために生きるのか」 という疑問が起こり勉強が手に付かず、高校を中退しました。 退学後の思いに反した空(むな)しい生活を経て、 再び、高校生活に入りましたが挫折し、 登校拒否を続けるような悶々(もんもん)とした模索の中で、 「人生は生きるに値しない。信じるに値するものは何もない」 と結論づけるにいたり、死のうとして死ねず、 生きることも出来ない状態にまでなりました。 このような時、二人の先生の真剣な、血の通う導きにより、 ある寺の本堂で、「ものすごく温かい何か大きなものに包まれている、 安らかで充実した」世界を知らされて、「ああ、人生は生きるに値するんだ。 信じるに値するんだ」と確信でき、新たな歩みが始まりました。 一夜をかけて、この世が生きるに値すると教えられたその場が 真宗の寺院であり、話をしてくれたのは、 彼を寺院に連れていってくれた 彼の高校の先生であり、先生と親しい住職でした。 以後も決して道は平坦ではありませんでしたが、 この事かきっかけとなって仏法に出遇い、よき師友に恵まれて、 現在は養護学校の教師をしておられる鶴田さんの 生き生きとした聞法生活の魂の記録 (『すでにこの道あり−生きることの意味を求めて』草光舎発行)は 読む者に感動を伝えずにおきません。 考えてみれば、誰の中にも、 「人は何のために生きるのか」 という問いが深く宿されているのでありましょう。 そのような問いに突き動かされ、道を求めずにおれない姿に 私は人間存在の輝きを感じます。
「道を求めんならんというのは、 春になって木の芽がめぐむようなもんなんだよなぁ」とつぶやかれ、 しきりに「時節到来」について語られたということが、 あらためて思い起こされます。 人間も、すべての生きとし生けるものを 共に生かしめている大地の恩恵をうけて、その恩恵を有り難いと感じ、 共に生きようとする意欲の萌(きざ)すとき 人生の花が開いたといえるのではないでしょうか。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1996(H8)年2月16日掲載> |