幼友達に始まって、学友、職場の友や同好の友など、
人生は様々な友人に恵まれることであります。 昭和14(1939)年、私が小学校(のちに国民学校)に入学して 最初の授業の時のことです。 私の斜め後ろの席からカリカリという妙な音が聞こえてくるので、 ふと振り返って見ると、F君が鉛筆を削らないで来たので、 芯を出そうとして一生懸命に鉛筆の先を歯で齧(かじ)っていたのです。 そのころは、今のような鉛筆削りはありませんでした。 でも、私が兄譲りのナイフを持っていたので 彼に貸したのがF君との初めての出会いでありました。 その時の、F君の丈夫そうな真っ白な歯と 彼の向こう見ずな子供離れした逞(たくま)しさが、とても印象的でした。 F君は在日韓国人の子供で、彼の家と私の家は二`余り離れていましたが、 それ以来彼とは随分親しい友人となりました。 中でも体育の、相撲とか水泳などよいライバルでいつも競い合ったものでした。 そのようなF君との仲も、六年生になると 上級校に進学するグループとそうでないグループとが自然にできあがり、 進学をしないF君との間も急速に疎遠になっていきました。 そして、中学に進学した年の八月、終戦を迎え、いつしか秋も探まった午後のこと、 突然、F君がわが家を訪ねてくれました。 彼は別れを言いに来たというのです。 戦争が終わったので家族全員故国へ帰るため、 取り敢(あ)えず大阪の方へ引っ越すとのことでした。 彼は別れぎわに、ポケットから卵を三個取り出して これを食べてくれと言って去っていきました。 そのころの卵はとても貴重なものでした。 彼との音信は、その後全く途絶見たままです。
韓国やアジア諸国に対するありかたを思うにつけても F君のことが想い出され、いたずらな歴史認識などにとらわれず、 何故(なぜ)侵略戦争の非を率直に 詫(わ)びることができないのかと残念に思うことであります。 日本の歴史を振り返りましても、 大陸伝来の仏教を何よりも尊ばれた聖徳太子は、 仏法僧の三宝に篤(あつ)く帰依されて、 仏法(真実の法)こそこの国の礎とされたのであります。 そこに太子は、己を是とし、他を非として争い傷つけ合わずにはおれない、 善悪に執(と)らわれた人間の姿を、 「共に是(こ)れ凡夫(ただひと)ならくのみ」と明らかに見定めらて、 自ら「凡夫の自覚」に立たれ、あらゆる人々と対話されたのであります。 まことに思想や人種、生活習慣の違い等や国境を超えて人々が出会い、 限りなく友を見いだしていく原点こそ 太子の生きられた凡夫の自覚にほかならないと教えられることです。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1996(H8)年3月13日掲載> |