誕生
「産みの苦しみを経て、はじめて赤ちゃんの元気な泣き声を聞いたとき、

お母さん方は頬(ほお)に一筋の涙を流して喜びます。

『ようこそ生まれてくれてありがとう』という感動の涙でしょうね」と、

以前、ある講話の中でお聞きした先生の言葉が

いまだに印象に残っています。

ともすれば生活に追われて、いつの間にか

当然のこととしてしまっている生も、

この誕生という事実がなければ、

私自身の人生は何一つ始まらなかったのだと知らされると

厳粛な思いにさせられます。

人のいのちの誕生について、科学的にはよく、

卵子と何億という精子の中からの結合ということから説明されて、

たしかにこれも驚くべき生命のドラマに違いありませんが、

このような単なる合理主義的ないのちの誕生の認識には、

人間を誤らせる危険性を私は感じてしまいます。

テレビや雑誌、日常会話など、至るところで何のためらいもなく

「子どもを作る」とか「もう子どもは作らない」

などという言葉を見聞きする昨今です。

たしかに人口爆発の問題に対して「バースコントロール」は

必要な人間の知恵かもしれません。

また、試験官ベビーや他人の女性の胎内を借りるという問題など、

それぞれ切実な事情があるのでしょう。

そして、結果として新しい生命を賜るのかもしれませんが、

果たしてこれが本当に進歩といえるのかと考えさせられます。

もし、科学技術の進歩と相倹(ま)って、

人間はいのちを作ることもできるし作らないこともできると、

いのちがあたかも人間の手中にでもあるかのように考えるなら、

とんでもない傲慢(ごうまん)だと思います。


大切なことは、生命の誕生は、人間の能力を超えた

限りなきいのちの用(はたら)きの中にこそあることを知ることです。

もしこのことを忘れるなら、地球上の生態系を

みな人間の思いのままにしてはばからない

過ちを犯すのではないでしょうか。


かつて中世から江戸時代にかけて、

生活苦から子どもを間引くことが各地でみられたそうですが、

なぜかお念仏のお法(みのり)の盛んな土地では、

そのような悲しい事実がほとんどなかったということであります。

そして、仏法を大切にする土地では今も、

例えば、滋賀県のある地方などでは、

子どもができたときに「児(こ)をもろうた」という言葉で

その喜びを表しているそうです。

このような人間の思いを超えてはたらいてくださる

無量寿のいのちに目覚めたとき、

いわゆる人間が人間と成る第二の誕生が実現せられるのであります。

どんなに科学技術が進んでその恩恵を私たちが受けようとも、

「児をもろうた」という言葉に込められている

根元のいのちの世界を拝んで参りたいものであります。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1996(H8)年4月10日掲載>