風
風薫る五月、じつにさわやかな季節です。

やがて新緑が深い緑となり、炎天下で汗ばんだ体を緑陰に憩うとき、

田の面を渡ってくる涼風の心地よさはまた格別です。

このような自然の風の恵みについてばかりでなく、

私には忘れられない「風」があります。

『往生要集』に、殺生罪を犯した者が「等活(とうかつ)地獄」に堕(お)ちて、

罪人は互いに常に害心を抱いて鉄の爪(つめ)で攫(つか)み裂きあい、

血肉も尽きて骨だけになる。あるいは、獄卒が鉄棒や刀で、

頭から足の先まで打ち砕き切り刻んで

砂塊のようになり、その形すらとどめなくなる。

すると、いちじんの涼風が吹いてきて、

罪人はたちまち元の姿に活(よみが)えり、

また始めから、互いに攫み裂きあい、獄卒に打ち砕かれ切り刻まれる。

これが際限なく繰り返されて終わることがない、と説かれています。

この地獄の受苦に、人間の根源的な罪が、

罪人の死をもって終わるような根の浅いものでないことを知らされます。

それにしても、打ち砕かれた残骨に、

なぜいちじんの涼風が吹くのでしょうか。

妙(たえ)なる音楽でもいいと思われるのに涼風が吹き、

残骨が吹き散らされてもおかしくないのに、

たちまち元の姿に活えり、獄卒も、「活活」といって活えりを待つ。

何とも心とらえられる不思議な光景です。

思えば、暑さにあえぐ者に涼風ほどさわやかなものはないように、

生活の中で絶えず心地よさや快楽を求めています。

しかし、人心地がつくのもつかの間、

たちまち、更なる苦しみが身心を襲います。

人間の作った涼風であるクーラーが、

チェルノブイリ原発のような地獄を現出していきます。

等活地獄というのは遠い世界のことではなく、

われわれの生き様の中にあるのではないかと思われてなりません。

それにしても、心地よいはずの「涼風」がなぜ地獄の苦しみの縁となるのか、

迷いの世界は一切が苦であると説かれた釈尊の教えが深く味あわされます。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1996(H8)年5月29日掲載>