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宇宙といえば「果たして有眼か無限か」と、
誰でも一度は必ず考えたことがあるのではないでしょうか。 この地球もその星の一つである太陽系があり、 それを包む銀河系がある。さらに、無数の銀河系がある。 想像を絶しますが、そういう宇宙に、いったい、果てが有るのか。 有るとすれば、その果ての外はどうなっているのか、と考えていきますと、 結局、解(わか)らないということが解ることになります。 そして、その壮大さの前に人間がかぎりなく小さな存在になってしまいます。 しかし、端的にいうと、自分自身が生きているということが 既に宇宙のはたらきそのものにほかなりません。 「小粒の米の中に宇宙がある」といい、 「一ひらの雪片の中に三千大千世界を感じた」という先覚の言葉が、 そのことを見事に語っていると思います。 宇宙は、客観的に言えば、計り知れない空間と時間の世界ですが、 人間の世界と別にそれがあるのではなく、 生きとし生けるものの上にそのはたらきが具現しているのでありましょう。 曽我量深師は「・・・生きた人間ばかりに血が続いているのではない。 山河大地みなである、血のもとは、山河大地、土であり国土である。 有情(生きとし生けるもの)と国土は一つである。 ・・・仏法では、国土を生むといわず、国土を感ずるという」と述べています。 血というのははたらきであり、いのちです。 それを感得するところに山河大地に感応して生きる 人間の主体的な感覚があります。 そこには自然との対立も孤立もなく、人間自身が自然に帰るのです。 人間と宇宙が一つになるのです。 今、人類は環境破壊、生態系の滅亡につながる深刻な問題を抱えています。 これは、宇宙・自然の恩恵を忘れた人間中心主義への反動が 引き起こしたものであることは明らかです。 人類は今こそ広大無辺ないのちの世界に目覚め、 「帰ろう もとのいのちへ」(南無阿弥陀仏)と喚(よ)びかけられた声に 一人一人が耳を傾けるべき時であると痛感することです。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1996(H8)年6月27日掲載> |