人は、他の動物と同様、必ず死を迎えますが、
この自然界の事実をそのまま受容できない心があります。 ことに、「死んだらどうなるか」という問いは、 おそらく人類がものを考えるようになって以来の疑問でありましょう。 古来、人は死んだら、肉体の命から魂が抜けて 霊魂になると考えられ、受け入れられてきました。
死後の事を司(つかさど)り、その事に明るいのが仏教だと 思われている人もいますが、 釈尊は死後についての質問に何も答えておられません。 何故なのでしょうか。 死んでも霊魂は不滅と言えば、それにとらわれ死後の世界を実体化して、 現在の生を見失うことになり、死後は何も無いと言うと、 死んだら“終(しま)い”になる人生なのかと虚無感に陥ってしまいます。 死後が有ると言っても、無いと言っても、 人間の迷いや不安、恐れなどの真の解決にはなりません。 釈尊は、有無にとらわれる執着こそが 迷いの“因(もと)”であると明らかにされています。 死後が気にかかるということは、 実は、二度と迷いの生を繰り返すことのない世界、 本当に諸々の憂いがなく、安らかで浄(きよ)らかな世界に 生まれたいと願っているしるしであります。
お見舞いしたことがあります。 病床にありながら、命のあるかぎりはと、 尊敬される師の原稿整理の仕事を穏やかなお顔でされていました。 「死生共に如来にあり」というその師の言葉を、 明日知れぬ病中に、お念仏と共に頂かれていたお姿に感銘を受けたことです
その命滅びゆくことに恐れおののく我々を哀れんで、 如来は真実のいのちに目覚めよと 喚(よ)びかけてやまないのであります。 「私は浄土へ往(ゆ)く ただそれだけ、 それでもう充分」と信国淳師は述懐されましたが、 如来の本願に感応して人生を尽くす念仏者の魂が彷彿と感じられ、 人生究極の方向が教えられます。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1996(H8)年7月16日掲載> |