国際貢献
国家といえば、お互いの国家関係、

いわゆる国際社会の中でしか存続できないものでありますが、

依然として、互いに国家のエゴ、

民族のエゴで相争わねばならぬという現実があります。

いったい、そういうエゴをどのようにすれば超えられるのかということは、

すべての国家が抱えている課題であると思います。


そのような状況の中で一九九〇年から国際頁献ということが言われ始めました。

国際貢献といえば、まず、富める国が貧しき国に対して行う

援助というような先入観念がありますが、

実際に、発展途上国に対する援助などを行わなければ、

国際間での自国の立場が悪くなっては困るという考えのもとで行う

国際責献であるならば、

それは、他国のためでなく自国の利益を図ってのことになります。

国際責献をしてやったというのであったら、折角(せっかく)の行為も、

恩着せがましい「雑毒の善」となり、

本当の信頼関係を開くものとはなりません。


さらにまた、金や物や技術でのみ頁献できるのであるという

抜き難い思いがありますが、

必ずしもそれらを提供することのみが国際貢献ではなかろうと思います。


釈尊は、金や物が無くても誰にでもできる「無財の七施」 

(眼施、和顔悦色施、言辞施、身施、心施、床座=しようざ=施、房舎施)

を説かれています。施とは、いわゆる布施のことです。

たとえば、眼施はやさしい眼で見つめ、ニッコリと相手を受け入れることで、

接する人にどんなに安らぎや力をあたえるか分かりません。

身施といえば、今日のいわゆるボランティアでありましょう。

そして、そのような本当の意味での国際頁献が成り立つには、

まず他国との出会いが必要です。

異なった国、異なった文化や宗教、言語習慣、そういう他者に出会い、

他者を尊重し合える精神の確立こそ急務です。

つまり、すべての国が異なったまま、バラバラのままで一つになれる、

すなわち、差異(ちがい)を認める世界を発見するということです。

このことを抜きにしては、隣国への理解も無く、

国際貢献はおろか自らの足元がいちばん危ういことになるのでないでしょうか。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1996(H8)年8月12日掲載>