今の子供たちは、いじめや登校拒否、さらに一方では、
テレクラなどによる女子中学・高校生の売春、 覚せい剤使用や非行の低年齢化など、 まさに子供の心が病み疲れています。 このような子供たちの心の荒廃は、 教育のあり方そのものが問われていると同時に、 子供たちを取り巻く社会環境には、たとえば児童に対する虐待など、 あまりにも退廃している実態があり、 大人の生きざまの反映として責任を感ずるものです。
どのような人間に育ってほしいと願っているのでしょうか。 そのことが明確になっていないということがないでしょうか。 それはつまり、大人自身が、どんな人間になりたい と願っているのかわからない、ということがあるのでありましょう。
筋ジストロフィーで入院中の青年が、ボランティアで来てくれた青年に、 「病院にいるのは嫌だ。早く家に帰りたい」と告げました。 それを聞いて「病院にいれば至れり尽くせり。 何故(なぜ)不便な家に帰らねばならないのか」と尋ねると、 「帰れば不便であり、苦しくもなるだろう。皆に迷惑をかけるかも知れないが、 自分は自分の人生の主人公としての日々を過ごしたい」と話したそうです。 ボランティアの青年は、自分はこれまで、 自分自身が人生の主人公として生きたいなどと 一遍でも考えたことがあっただろうかと気付かされた時、 心から恥ずかしくなったという話です。
南無阿弥陀仏の主に成るというは、信心をうることなり」と述べておられますが、 「弥陀をたのむ」ということは、 欲望を自己として生きているということに気付くことです。 それは即(すなわ)ち自己が自分の人生の主人公として生きていないということ、 つまり、人生の全てを自己の内容として、生きてはいないということであります。 今、子供たちの問題も、 大人である我々自身の生き方が厳しく問われておる課題として 受け止めなければならぬと憶(おも)われてなりません。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1996(H8)年9月6日掲載> |