人として生まれた以上、私どもは自らの肉体を選び直すことはできません。
人はこの肉体と生死を共にする他ないのです。 近ごろの風潮を見ても、肉体を満足させることに心奪われ、 「年を取らないで長生きしたい」と思っているかのような感さえ受けます。 しかし、この肉体に現れる老病死の厳しい現実の愁嘆を だれも覆い隠せないのも事実です。 釈尊は、なぜ人は、老い、病み、死ななければならないのか、 と人間を凝視し、その意味を真剣に問われました。 肉体をもった以上、老病死はすべての人に平等に訪れます。 人はこの事実に目を背けたり逃げたりして、 ひたすら快楽を貪(むさぼ)っているかのようです。
思い通りにならぬものを思い通りにしたいという 人間の愚かさとその根源悪、 つまり、いのちを私有化する罪の深さを見徹(とお)されたのです。 私どもは、この人間の根源悪に気付かされることによって、 はじめて老病死の苦悩を超えることができるのです。 それは、老病死という肉体の厳しい現実が、 人間存在の根源悪に目覚めさせ、 同時に、真実のいのち・永遠のいのちのはたらきの中に生かしめられる 自己を見い出すからであります。 なるほど、年老いるということは、辛く悲しいことであります。 ところが、大変皮肉なことですが、 人間が有史以来願ってきたことが、長生きをすることでした。 しかし長生きをすれば、必ず通らねばならぬ道が、 老いるという唯一の道です。 だから、若くて健康だといって他に誇ることは 全く意味のないことであります。 さらにまた、老いた身であるからといって、 いたずらに嘆き悲しむこともありません。 私どもに肉体が与えられているかぎり、 この身の事実を通して自我のはからいが破られ、 限り無い仏の光の中で、 いのちのほんとうの尊さに出遇(あ)い続けていけるのですから。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1996(H8)年10月2日掲載> |