大自然

アフリカのケニアで、たくさんの動物が群れていても

大自然があるだけですが、

それに反して、周囲がどんなに豊かな自然でも、

そこに人間が住むと、もう自然ではなくなります。


大自然のなかの動物の一種であり、森の樹上で生活していた類人猿が、

ある日突然、二本足で立ちだしたのです。

そして、道具を使い、言葉を話すようになり、

どんどん大脳が発達していきました。

鈴木大拙先生は「大脳が発達したから手が器用になったのか、

手が解放されて働くようになって大脳が発達したのか。

わしは後者を取る」と述べられていますが、

この人間の誕生という自然発生的な進化が、

一体何をもたらしたのでしょうか。

人間はいつの間にか万物の霊長と驕(おご)るようになりましたが、

そのような人間とは一体何でありましょうか。

百獣の王として恐れられるライオンも満腹になると、それ以上は殺しません。

人間は自分の都合のためなら必要以上に殺し続けます。

人間がたむろすると自然が壊され、

生き物のありのままのすがたである業道自然(ごうどうじねん)の世界に、

むやみにいのちを傷つけ殺し合う穢土(えど)を現出していきます。


もちろん、科学そのものは本来「無記(むき)」で、

善でもなければ悪でもありません。

それを使う人間の心によって、核兵器やサリンガスにみるような

殺りくの地獄をもたらすのです。

ここに、科学的な営みをする人間、「人間とは何か」が

今最も問われなければならないのでしょう。


しかし、科学がどんなに進歩しても、

人間そのものを科学で明らかにすることはできません。

そのような人間の知性の闇を照らすのが

如来の本願(南無阿弥陀仏)の呼びかけであります。

自分の力で生きておると錯覚し、

限りなく欲望を拡大することにかかずり果てていたわが身が、

いったん如来の智慧に照らされて見れば、

大いなる自然のはたらきの中に生かされていた自己を知り、

やがて限りなく謙虚に、すべてのいのちが敬われてきます。

そこからはじめて、明るく広やかに生きる平和な世界が開かれるのであります。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1996(H8)年11月5日掲載>