寒
かつて、雪国の農家では、冬は田も畑も出来ませんので、

稲藁(いなわら)で縄や筵(むしろ)、俵(たわら)などを編んだり、

囲炉裏を囲んでは、人びとは親鸞聖人の教えについて語り合う

仏法の談合をしました。

寒さの中にも、「冬来たりなば春遠からじ」との思いで

春の到来を待っていました。


この、耐え忍ぶということは、人間の営みの中で実に大切な心ですが、

現代はどうかと言いますと、大量生産、大量消費の時代となり、

その心がすっかり忘れられ、資源の枯渇や

環境破壊の問題等まできたしております。

産業革命により、大量に物を生産する能力を高めることができ、

大量消費が始まりましたが、

人間中心の欲望満足の方向では必ず挫折します。

欲望は無限であり、資源は有限だからです。今、ようやく気付いて、

リサイクルということが大事にされ始めましたが、

もっと根本的に、近代の産業革命以来の価値観を根底から

問い直さなければならない期(とき)が来たと思うのです。


アメリカでの話ですが、ある学者が工夫して、タングステンが

非常に長持ちする電球を発明しました。

特許を取って、メーカーに売り込みに行ったところ、

「この電球は耐久度が優れ電球としては優秀でも、商品としては駄目です。

初めは売れても後が売れません」と言ったそうです。

まさに大量生産、大量消費の矛盾を絵に描いたような話です。

環境破壊をもたらすような問題の中で、

何を最も大事にしなければならないかと言えば、勿体(もったい)ないという心です。

単に物惜しみをするというのではありません。

本当に物を大切にする心であります。


蓮如上人は、廊下に落ちていた紙切れに目が留まり、

「仏法領(ぶっぽうりょう〕のものをあだ(無駄)にするかや」と、

両手に頂かれたということですが、

些細な物も限りない謝念と共に頂いていく心です。

我慢するということでは、環境や大自然を頂くということが出てきません。

損か得かで資源を大事にするということではなく、

もっと本質的に、物心両面にわたって、私どもが、いかに勿体ないことをし、

無慙無愧(むざんむぎ)な生活をしているか、

そのことに気付くことがなければ、

本当の意味の環境問題の解決も出来ないと憶われます。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1996(H8)年12月5日掲載>