夢
元日に見る初夢にも、一富士、二鷹、三茄子(なすび)というランクづけが

あるようですが、なかなか思うような夢を見ることができないのが現実です。

それどころか、大抵の夢は、身に危機が追ってどうにもならず、

もがきあがくような悪夢か多く、

楽しい夢などはほとんど見ないのが常のようです。


しかし、何故そのように怖い夢を見るのか、

現実生活での悩みなどに、それと気付くこともあれば、

思い当たらないこともあります。

夢は必ずしもおびえる夢ばかりとは限りませんが、

日常の意識では計れないような無意識の領域にわたる

人間存在の底知れぬ深さに気付かされます。

現実の生活では、案外と平穏な日々を過ごしているようであっても、

心の底では常に不安の思いに駆られ、

身を守ることにのみ明け暮れている

深層の意識が怖い夢となって現れるようであります。


精神医学者のユングは、人類が長い間体験してきた様々な情緒が、

人間の無意識の領域の深層にあると指摘していますが、

この被害者意識も、奪い合いや殺し合いなど、

いのちが脅かされ恐れ続けてきたその歴史が、

私どもの心の、無意識の深層に息づいているように思います。


癌のため、五十そこそこの若さで逝ったある知人の方が、

亡くなる直前に、「自分の人生は、結局、被害者意識ばかりだった」

と慚愧の述懐をされたということを聞きましたが、

この被害者意識に終始するということは、

自分の加害者的行為に恥じることなく、我が身が不可思議なご因縁の中に

生かされているという感謝の心を見失っていることを

証(あかし)するものでありましょう。


どんな怖い夢も覚めれば、もう夢におびえることはないように、

自らの被害者意識や不安の思いに先だって

賜っている身の事実に気付かされれば、

不可思議のいのちのはたらきに生かされてこの身(己が人生)を

安んじて引き受けていくことができるのでありましょう。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1997(H9)年1月8日掲載>