元日に見る初夢にも、一富士、二鷹、三茄子(なすび)というランクづけが
あるようですが、なかなか思うような夢を見ることができないのが現実です。 それどころか、大抵の夢は、身に危機が追ってどうにもならず、 もがきあがくような悪夢か多く、 楽しい夢などはほとんど見ないのが常のようです。
現実生活での悩みなどに、それと気付くこともあれば、 思い当たらないこともあります。 夢は必ずしもおびえる夢ばかりとは限りませんが、 日常の意識では計れないような無意識の領域にわたる 人間存在の底知れぬ深さに気付かされます。 現実の生活では、案外と平穏な日々を過ごしているようであっても、 心の底では常に不安の思いに駆られ、 身を守ることにのみ明け暮れている 深層の意識が怖い夢となって現れるようであります。
人間の無意識の領域の深層にあると指摘していますが、 この被害者意識も、奪い合いや殺し合いなど、 いのちが脅かされ恐れ続けてきたその歴史が、 私どもの心の、無意識の深層に息づいているように思います。
亡くなる直前に、「自分の人生は、結局、被害者意識ばかりだった」 と慚愧の述懐をされたということを聞きましたが、 この被害者意識に終始するということは、 自分の加害者的行為に恥じることなく、我が身が不可思議なご因縁の中に 生かされているという感謝の心を見失っていることを 証(あかし)するものでありましょう。
自らの被害者意識や不安の思いに先だって 賜っている身の事実に気付かされれば、 不可思議のいのちのはたらきに生かされてこの身(己が人生)を 安んじて引き受けていくことができるのでありましょう。 |
能邨英士 産経新聞−語る−欄<1997(H9)年1月8日掲載> |