神話
神話といえば、ギリシャ神話や古事記などが思い出されますが、

今日では神話は遠い昔話であり空想の世界のものとしか

受けとめられないのではないでしょうか。


現代は、とかく科学的実証主義の考え方がすべてであって、

実証できないものは存在しないものであり、

存在したいものは信じられないもの、というような状況になってきています。


そして、科学的合理的にすべてのことを行うなら

人間は必ず幸せになれると考えている。

そういう人間が、本当に人間らしく幸せに生きているのでしょうか。

深く考えさせられる問題です。


浄土真宗(本願念仏の教え)で、神話といえば、

まず、法蔵菩薩の物語が想い起こされます。

十方衆生を救い遂げなければ自分も決して

阿弥陀(無量寿・無量光)仏とはならない、という誓願を法蔵菩薩がたてられ、

兆載永劫(ちょうさいようごう=永遠)のご修行をして

阿弥陀仏となられたという釋尊のおしえです。

ところが、その法蔵菩薩が、どこで修行されているのかと問われれば、

そんなことを客観的に実証できるわけがありません。

しかも永劫の修行というのですから。


しかし、ここに本願の教えに深く帰依したある念仏者の一人が、

自分の家の庭に「法蔵菩薩ご修行の池」という

標柱をたてたという話を聞いたことがあります。

その人にとっての家庭とは、そのまま、損得勘定やねたみ・そねみなど、

愚痴の絶えない、まさに煩悩にまみれた者達の生活の場に

ほかならなかったのでありましょう。その救われようのない生活の場、

そこにこそ法蔵菩薩が修行しておられると実感されたのだと思います。


蓮如上人が「末代無智の在家止住(ざいけしじゅう)」と申されるように、

煩悩に明け暮れる生活者としての身であると知らされば、

法蔵菩薩の永劫の修行と言われる意味が頷かれてまいります。


現代は、科学的合理主義を確かなものと執着するあまり、

不可称・不可説・不可思議の、

かぎりないいのちのはたらきが見えなくなっている時代と言えましょう。

不可思議光如来(阿弥陀仏)の存在がわからなくなっているところに、

人間の知性の闇の深さが厳しく問われていると思われてなりません。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1997(H9)年2月4日掲載>