ひな祭り
私にとって、身近な初めてのひな祭りは、長女が生まれて、

妻の母親がお雛(ひな)さまを贈ってくれ、それを飾ったことです

初孫のためにいろいろと心くばりをしてお離さまを贈ってくれた、

今は亡き義母(はは)の心情を偲んで感慨ひとしおであります。


もう随分以前のことですが、あるデパートで万年筆を買おうとしているとき、

少し離れた玩具(がんぐ)売り場で初老の女性が、

赤ちゃんのおもちゃをあれこれ手に取りながら、

入念に時間をかけて選んでいました。

私もちょうど、万年筆をあれこれ手にとって調べていました。

その時私は、赤ちゃんのおもちゃはどうせ半年か1年くらいのものだが、

万年筆は一生のものと思っていましたので

よくもあれだけ入念に選べるものだと感心しておりました。 

しかし、よくよく考えてみますと、おそらくその女性は、

きっと初孫のおもちゃを求めようとされていたのでしょう。

その女性の所作に、孫に対する

ひたむきな愛と願いというものを感じさせられたことです。

ひな祭りにこめられた親の愛と願いを思うにつけても、

南無阿弥陀仏の名号が憶われます。

ひな祭りに親の願いが込められておるように、

南無阿弥陀仏の名号には阿弥陀仏の本願という生きとし生けるもの

すべてにかけられている広大無辺の大悲の願があります。


我々は、人生の中で行きづまり、他人(ひと)にもいえぬ悩みの中で、

どうしようもないはど孤独感を味わい、空しくなることがあります。

しかし、そのような時でも、決して狐独ではないのです。

ただ、自分にかけられている大きな如来の願いに気付かないだけであります。

「念仏をもうせ」と呼びかける本願に出遇(あ)うとき、

一緒になって苦しみ悩んでいる如来のはかり知れない大悲を感じ、

決して一人ではないと知らされます。

そして、ひとりぼっちだと思っていた自我いっぱいの我が身の姿に気付かされ、

その我が身の姿に心から深く懴悔するとき、

はじめて人生の挫折から解放されて明るい世界が開かれるのであります。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1997(H9)年3月3日掲載>