書
日本の文字は、漢字と仮名から成り たっています。

文字は何かを伝えたり書き写すための手段として存在する一方、

書として中国の古い時代から美の表現方法として、

重要な側面をもってきたことは皆さんご承知のとおりであります。


私などは、生来の悪筆のところへ

小学生の時に書道を習ったきりで、

その後は筆を持つ機会がなかったのですから、

たまに筆をとらねばならぬ時には勿論のこと、

その他、ペン字でも随分と苦い思いをしてまいりました。

その点、現在はワープロという文字どおり文明の利器が普及して、

ペン字の悪筆を嘆かなくてもすむ良き時代なのかもしれません。

そして、漢字は書写するものから、キーで打ち出すものとなり、

筆順や部首などを知らなくても

難しい漢字をどんどん使えるようになってきました。


しかし昔は読み・書き・そろばんができて

初めて一人前になったのですが、ワープロ時代の今日、

読むことはできても果たして正確に漢字を

書写することができるのかと、いささか心配であります。

「狼」という字を「娘」と書いてみたり、

「勉強」と書くところを「勉競」とするなど、

漢字の将来が危惧される風潮が起こりつつあります。


古来、「写経」や「写本」ということがありますように、

印刷技術のなかった時代は

「経典」を初め大切な書物を書写することが、

素読と同様に学問の基本でありました。

昔の高僧の書き残されたものを拝見すると、

一文字、一文字をどれだけ吟味して使っておられるか、

まことに計り知れぬご苦労を思わずにはおれません。

それは、言葉がいのちであるからであります。

そして文字は意表文字として、

それぞれの意味をもつからであります。

そのことがあって、われわれは何千年の時を隔てても、

その古き言葉から瑞々(みずみず)しい

いのちを与えられるのであります。

この心せわしい今日、ワープロのキーからしばし離れて、

経典書写のひとときをもつゆとりが欲しいものです。


能邨英士
産経新聞−語る−欄<1997(H9)年9月4日掲載>