第6回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会 大会宣言 本年、「らい予防法」の廃止・真宗大谷派謝罪声明から10年、ハンセン病国賠訴訟勝訴判決から5年という節目の年を迎えました。私たちはいま、これまでの歩みをふりかえり、さらなる一歩を踏み出していくため、「第6回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」参加者一同で「ひとりからはじめる京都宣言」を採択し、行動指針を確認したいと思います。
ひとりからはじめる京都宣言
【私たちへの問いかけ】
ハンセン病問題はけっして終ってはいません。この5年間を振り返ってみてもハンセン病回復者に悲しい思いをさせてしまった宿泊拒否事件や、隔離と植民地支配という二重の被害を与えてきた韓国ソロクト・台湾楽生院をめぐる問題、ハンセン病療養所での医療過誤を問う訴訟などがありました。また、ハンセン病療養所に存在している「胎児標本」にどう向きあっていくのかが、あらたな問題として提起されています。いまなおふるさとへ帰ることができない人がいます。ハンセン病だったという過去を語れずにいる人がいます。これらはすべてハンセン病問題が終わっていないことのあかしです。
これはいったい誰の罪なのでしょうか。けっして一部の人の罪なのではありません。そこには以前と何も変わらない、変わろうとしない国や私たちのありさまが、大きく横たわっているのではないでしょうか。
【ひとりと出会う】
私たちは、ハンセン病を患った人たちに対して、「かわいそうな人」「救ってあげなければならない人」などとレッテルを貼って、人をひとくくりにして出会おうとしてきたのではないでしょうか。差異(ちがい)をもったひとりの人とていねいに出会っていくことの大切さを見失ってきたのではないでしょうか。
ひとりと出会うとは、その人をその人たらしめているいのちのはたらきに出会うことに他なりません。それは同時に、壁をつくる私自身のあり方を照らし出すはたらきに出会うということです。その出会いは、私たちの問題意識をさらに課題へと深め、ともに生きるという具体的な歩みをうながしつづける出会いとなることでしょう。
【この集会で学んだこと】
今回の交流集会を振り返ってみたいと思います。台湾からの参加を得たことは実に大きな意義のあることでした。台湾・韓国などの日本の支配下にあった地域における人権侵害も、近代日本の過酷なハンセン病政策がもたらしたものであることを確認しました。その方たちが強く訴えられたことは、多大な被害に対する真相を究明することと、国を超えた共生と連帯の要請でありました。
ハンセン病問題のいまとこれからについて。そのことを考えるとき、回復者の声と真摯に向き合うことを見失ってはならないことをあらためて実感しました。
さらには宗教者の責任の問題です。入所者を救済の客体ととらえていくようなあり方は、私たちのあり方そのものを問うてくる課題でありました。
人間回復に向けたたたかいについて。これは人と人との呼応関係の上にこそ成り立つということ、あやまちを犯しつづける人の世を問いつづけるということの大切さを教えられました。
そして、記念講演での徳田先生のお話は、解放の主体として互いを見出していくつながりの回復が、今後の大きな課題であることを示唆してくれました。
【ともに生きる】
ともに生きるとは、人間を照らす光に目覚め、それをさえぎる存在を問いつくすことを意味します。さえぎる存在とは、ひとりを大切にしない国家の体制や既存の組織、そして実は私自身であるのかもしれません。それらの存在を問いつづける声を聞くことの中に、ともに生きる世界は開かれてくるのではないでしょうか。ハンセン病回復者という「ひとり」とともに生きることを、いまこそ確かなものとしていきたいのです。
隔離された人間と隔離した人間、その両者が、ともに解放されなくては本当の解放とはいえません。ハンセン病回復者と私たち、いま、ともなる歩みを「ひとり」から始めていくことをここに宣言し、行動指針を確認いたします。
行動指針
@ 発見 ひとりの人を、同朋(どうほう)として見いだす
相手を「特別な存在」「救済の客体」として見てきた事実を洗い出し、ひとりの人を「とも同朋」「解放の主体」として見いだしていきたい。
A 表現 いまの私を語る場を、開きつづける
ハンセン病回復者と私たちが、ともに自らの歩みを振り返り、いまの自分を自分の言葉で表現する場を、開きつづけていきたい。
B 解放 親鸞の解放の精神に学ぶ
差別の現実をよく見極めながら、親鸞の言葉や生きざまに立ち返り、その解放の精神に、自らの生き方を学んでいきたい。
C 連帯 社会に発信し、行動をともにする
人間を踏みにじる思想や言動に目をこらし、そのことの罪の重さを社会に発信し、差別を許さない行動をともにしていきたい。
2006年3月9日
第6回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会 参加者一同
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