当寺の濫觴(らんしょう)は、遠く室町時代に溯る。伝説のいうところによると、本願寺五世の綽如(しゃくにょ)上人が北国へ下向したとき、加賀市弓波の地の村人の請いによって天台宗諦通院(たいつういん)の跡地に寺基を興し、勝光寺と称した。浄土真宗の教えが弓波の地にあらわれた最初である。
綽如上人が越中へ去るに当たり、勝光寺を二男鸞芸(らんげい)に譲った。
やがてその子祐信(ゆうしん)があとを継いだが、本願寺八世蓮如上人の息子蓮誓(れんせい)が加賀市山田に光教寺を開くや、勝光寺住職も兼務したという。
時に文明15年(1483)というから、加賀の地に一向一揆の動乱が巻き起ころうとしている寸前である。
江戸の初期、本願寺の東西分派が起こり、第七代祐欽(ゆうきん)が小松掛所を興し、祐欽の長男祐恩(ゆうおん)は加賀市の打越勝光寺(西本願寺)を継承し、三男祐慶(ゆうけい)が小松掛所を基にして、新たに小松勝光寺(東本願寺)を開いた。
爾来、当寺はこの加南の地にあって、一向専修の念佛道場として門徒大衆の心の拠りどころとして、今日に至るまでよく護持相続されてきたが、その間に度重なる災難にも見舞われた。
殊に十六代住職祐稽(ゆうけい)時代の天保4年(1833)に全焼の難に遭い、更に50年後の二十一代住職現璋(げんしょう)時代の明治20年(1887)に再び業火に襲われた。
更に、昭和7年(1932)小松橋南の大火が、三度この寺を鳥有(うゆう)に帰せしめたのである。
この最後の火災からの復興事業は、時恰(あたか)も第二次世界大戦に遭遇し、事業は中断の止む無きに至り、戦後昭和23年(1948)当時の日銀総裁新木栄吉氏の尽力で、漸く建築許可が下りたものの、有史以来のインフレ経済のもとで、その復興事業は難渋を極めた。
最後には、「この柱を寝かしたままで腐らすか、立てて腐らすか。どうせ腐らすなら、立てて腐らせようではないか」という第二十四代能邨俊英住職と門徒の人々の悲壮なまでの熱い思いが、さしもの難事業をよく円成せしめたのである。
その後五十年の星霜を経て、本堂屋根瓦の痛み漸く激しくなり、平成13年(2001)5月奉修の蓮如上人五百回御遠忌法要の記念事業として、第二十五代住職及び門徒一同挙げて懇念を運び、本堂屋根瓦の葺替工事を滞りなく完遂いたしたものである。
ここに先の本堂の鬼瓦を記念として永く保存し、併せて当寺の略史を誌すものである。 |